精神的自由権2(表現の自由1)

今回は精神的自由権の中でも特に重要な権利である表現の自由についての解説です。

何度も紹介していますが、もう一度人権の分類を確認しましょう。

人権の分類

精神的自由権には、内面的なものと外面的なものがあります。

今回解説する表現の自由は、外部に自分の思想や意見などを表明するものなので、外面的なものになります。

表現の自由は、憲法全体の中でも特に重要なテーマになりますので、しっかりと理解するようにして下さい。

それでは、解説に入ります。

表現の自由の価値

人間の内面的な思想や信仰というのは、それが外部に表明されて他者に伝達されることによってはじめて社会的な効用を発揮します

いくら高邁で立派な思想を持っていたとしても、心の中で思っているだけでは、あまり意味がありませんよね。

それを本にして出版したりするなど、何らかの形で外部に表明して、他人に聞いてもらってはじめて社会的効用が生まれます。

表現の自由の重要性を支える価値は2つあります。

1つは、個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという個人的な価値(自己実現の価値)です。

自分の考えていることなどを表現して、誰かに聞いてもらい、それに対して誰かが共感してくれたり、または反論するなどしてコミュニケーションを取ります。

人間というのは人とのコミュニケーションを通じて自分の思想や考え方などが成長していきますよね。

これを自己実現の価値と言います。

もう1つは、言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという、民主政に資する社会的な価値(自己統治の価値)です。

少し分かりにくいかもしれませんが、政治家などが街中で街頭演説しているのをイメージして下さい。

自分の政治的信条などをたくさんの人に聞いてもらい、それに賛同してくれる人を集めることで、選挙に当選し、議員として政治に参加していくことができます。

別に選挙に立候補しない普通の一般人でも同じことです。自分の思想や信条を自由に表現することで、はじめて積極的に政治に参加することができます。

このように、表現の自由は、個人の人格形成にとって重要な権利であり、また、国民が自ら政治に参加するための不可欠の前提をなす権利でもあるのです。

この自己実現の価値と自己統治の価値というのは重要なので、この2つの言葉は覚えてしまって下さい。

知る権利

従来は表現の自由、すなわち情報の送り手の自由を保障すればよかったのですが、現在においては、情報の受け手の自由をも保障する必要性が出てきました。

送り手の自由から受けての自由へ

表現の自由は、元々は思想・情報を発表し伝達する自由として保障されてきました。

表現の自由をは、情報をコミュニケートする自由ですから、当然「受け手」の存在を前提にしています。

19世紀くらいまでは情報の送り手の自由を保障さえしておけば、特に受け手の自由というものは問題にする必要がありませんでした。

ところが、20世期になると、社会的に大きな影響力を持つマス・メディアが登場し、それらのメディアからの情報が大量に一方的に流され、情報の送り手であるマス・メディアと受け手である一般国民の分離が顕著になり、固定化されました。

そこで、表現の自由を情報の受け手である一般国民の立場から再構成し、表現の受け手の自由を「知る権利」として保障する必要が出てきました。

現代社会においては、情報のほとんどがマス・メディアを通じて発信されていますよね。

一般国民である私たちは、情報の受け手に固定されています。

そんな状況で、表現を発表する自由だけ保障しても、前述の自己実現・自己統治の価値は実現できませんよね。

マス・メディアなどの発表する情報を私たち一般国民が自由に受け取れる自由が保障されなければ意味がありません。

そこで、「知る権利」が保障されるようになったというわけです。

アクセス権

アクセス権とは、一般国民がマス・メディアに対して自己の意見の発表の場を提供することを要求する権利です。

現代社会において、情報を発信する大きな影響力を持っているのはマスメディアです。

全ての一般国民がそのマスメディアを利用して、自己の意見を表明できる権利が保障されて、初めて表現の自由が実質的に保障されると言えるのではないかということです。

ただし、アクセス権は憲法21条から直接導き出すことは不可能だと考えられています。

また、アクセス権を具体的権利として認める法律を制定したとしても、違憲となる可能性が高いです。

なぜなら、アクセス権を認めてしまうと、マスメディアとしては、反論文など特定の記事の掲載などを強要されてしまうことになり、批判的な記事の掲載を躊躇させ憲法の保障する表現の自由を侵害する危険が生じるからです。

それが具体的に問題となったのがサンケイ新聞事件です。

サンケイ新聞事件(最判昭62.4.24)

事案

自民党がサンケイ新聞に「前略 日本共産党殿 はっきりさせて下さい」という見出しで、意見広告を掲載した。この意見広告が共産党の名営を毀損したとして、共産党が同じスペースの反論文を無料かつ無修正で掲載要求した。

結論

反論文の掲載請求は認められない。

判旨

当事者の一方が情報の収集、管理、処理につき強い影響力をもつ日刊新聞紙を全国的に発行・発売する者である場合でも、憲法21条の規定から直接に、反諭文掲載の請求権が他方の当事者に生ずるものでないことは明らかというべきである。

この制度が認められるときは、新問を発行・販売する者にとっては、その掲載を強制されることになり、また、そのために本来ならば他に利用できたはずの紙面を割かなければならなくなる等の負担を強いられるのであって、これらの負担 が、批判的記事、ことに公的事項に関する批判的記事の掲載をちゅうちょさせ、憲法の保障する表現の自由を間接的に侵す危険につながるおそれも多分に存する

報道の自由と取材の自由

報道は単なる事実を知らせるものであり、特定の思想や意見を表明するものではありません。そこで、報道の自由が憲法21条によって保障されるのかが問題となります。

この点については、事実の報道であっても、報道内容の編集という知的な作業を経る点で送り手の意見が表明されていると考えられることから憲法21条で保障されると考えられています。

何を報道するのか、何を報道しないのか、取材した事実をどのように報道するのかで、表現方法は全く異なります。

編集という知的作業が入れば、それは単なる事実の報道ではなく、思想や意見を表明するのとことなりません。

また、報道機関の報道は民主主義社会において国民が国政に関与する際に、重要な判断資料を提供する点で、 国民の知る権利に奉仕するものとして重要な意義を持ちます。

この点からも報道の自由は21条で保障されるべきだと考えられます。

さらに、取材の自由も保障されるかが問題となりますが、保障されると考えられます。

なぜなら、報道は取材・編集・発表という一連の行為により成立するものであり、取材は表現の自由として保障される報道にとって不可欠の前提となるものだからです。

報道の自由と取材の自由が問題になった判例が博多駅テレビフィルム提出命令事件です。

博多駅テレビフィルム提出命令事件(最大決昭44.11.26)

事案

米原子力空母寄港反対闘争に参加した学生と機動隊員とが博多駅付近で衝突し、機動隊側に過剰警備があったとして付審判請求がなされたため、裁判所がテレビ放送会社に衝突の様子を撮影したテレビフィルムを証拠として提出することを命じた。そこで、放送会社は、テレビフィルムの提出命令が報道・取材の自由を侵害するとして争った。

結論

報道・取材の自由を侵害せず合憲

判旨

報道機関の報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の知る権利に奉仕するものであるから、思想の表明の自由とならんで、事実の報道の自由は、表現の自由を規定した憲法21条の保障の下にある

報道機関の報道が正しい内容をもっためには、報道の自由とともに、報道のための取材の自由も、憲法21条の精神に照らし、十分尊重に値するものといわなければならない

取材の自由といっても、何らの制約を受けないものではなく、例えば公正な裁判の実現というような憲法上の要請があるときは、ある程度の制約を受けることのあることも否定することができない。本件フィルムは、過剰警備か否かを判断するためにほとんど必須のものと認められるほど証拠上きわめて重要な価値を有する。また、既に放映済みのものを含む放映のために準備されたものであることから提出命令は合憲である。

取材源の秘匿

取材の自由と関連して取材源の秘匿が憲法で保障されるのかが問題となります。

取材源の秘匿というのは、記者などが誰から取材してきたのかという情報の出所を秘匿する権利です。

取材に応じて情報を提供した人としては、自分のことを秘密にしてくれるという記者との信頼関係があるから情報を提供するのが普通です。

取材源の秘匿が守られなければ、今後は取材に応じてもらえなくなる可能性があり、将来の取材の自由が侵害される危険があります。

そこで取材源お秘匿が憲法上保障されるのか、特に裁判での証言拒絶権との関係で問題となります。

この点につき判例は、刑事事件と民事事件とで異なる結論を出しています。

刑事事件については、新聞記者の証言拒絶権を認めず取材源の秘匿は認められないとしたのに対して(朝日新聞石井記者事件)、民事事件では原則として取材源に係る証言を拒絶することができるとしました。

刑事事件で証言拒絶を認めず、取材源の秘匿が認められないとしたのは、民事事件と異なり刑事事件ではより公正な裁判の実現が求められるからです。

刑事裁判では、最悪の場合被告人が死刑になります。まさに人間の人権が直接に関わってくるのですね。

なので、真実発見の要請が強く働き、公正な裁判を実現しなければならないのです。間違った裁判は許されないため、知っていることは全部話さなければならないという方向に行きがちなのです。

他方で民事裁判の場合は、所詮お金の問題とある程度割り切ることができます。財産権よりも、取材源の秘匿という人権の方が重視されるわけです。

法廷における取材の自由

取材の自由が21条で保障されるとしても、法廷での取材の自由も保障されるのでしょうか?

その点が問題になった判例がレペタ事件です。

レペタ事件(最大判平元.3.8)

事案

アメリカ人の弁護士レペタは、裁判を傍聴した際に、傍聴席でのメモ採取を希望し許可申請を行ったが認められなかった。そこで、この裁判所の措置は憲法21条に違反するのではないかが争われた。

結論

法廷でメモを取る行為を制限することは合憲

判旨

裁判の公開が制度として保障されている ことに伴い、各人は、裁判を傍聴することができるが、それは、各人が裁判所 に対して傍聴することを権利として要求できることまでを認めたものでないし、傍聴人に対して法廷においてメモを取ることを権利として保障しているものでもない

しかし、各人が自由にさまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する自由は、憲法21条1項の趣旨、目的から、いわばその派生原理として当然に導かれる

このような情報等に接し、これを摂取することを補助するものとしてなされる限り、筆記行為の自由は、憲法21条1項の規定の梢神に照らして聰重されるべきである。

もっとも、筆記行為の自由は、憲法21条1項の規定によって直接保障されている表現の自由そのものとは異なるものであるから、その制限又は禁止には、表現の自由に制約を加える場合に一般に必要とされる厳格な基準が要求されるものではない

公正かつ円滑な訴訟の運営は、傍聴人がメモを取ることに比べれば、はるかに優越する法益であるが、傍聴人のメモを取る行為が公正かつ円滑な訴訟の運営を妨げるに至ることは、通常はあり得ないのであって、特段の事情のない限り、これを傍聴人の自由に任せるべきであり、それが憲法21条1項の規定の精神に合致する

報道の公共性、ひいては報道のための取材の自由に対する配慮に基づき、司法記者クラブ所属の報道機関の記者に対してのみ法廷においてメモを取ることを許可することも、合理性を欠<措置ということはできない

性表現と名誉毀損的表現

表現の自由が憲法21条1項で保障されるとしても、無制約に保障されるわけではありません。

例えば、性表現や名誉毀損的な表現については、刑法で罰則規定が置かれており、禁止されています。

どこまでの表現が許されて、どのような表現が許されないのか、その線引きが難しいところです。

判例は、性表現や名誉毀損的な表現も原則として21条1項で保障されるとしながら、他の人権と衝突する部分については、両者の人権のバランスを取りながら、保障される範囲を限定していくというアプローチを採っています。

なお、名誉毀損的な表現については、刑法230条の2第1項がバランスを図っています。

具体的には、摘示された事実が公共の利害に関するものであって、かつ、その目的がもっぱら公益を図ることにあったと認められ、事実が真実であったことの証明があったときは名誉毀損罪は成立しないとされています。

性表現の自由が問題となった判例としては、チャタレイ事件(最大判昭32.3.13)、悪徳の栄事件(最大判昭44.10.15)、四畳半襖の下張事件(最判昭55.11.28)などがあります。

ただ、行政書士試験との関係ではそれほど重要性は高くないと思われます。

最後に

表現の自由は憲法の中でもっとも重要度の高い部分です。

行政書士試験でも頻出の分野ですので、重要な判例については読み込んでおくことが必要です。

表現の自由についてはまだ色々とあるのですが、とりあえず今回はここまでにしておきます。

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